「肥前国風土記」によると、その昔、景行天皇が志式嶋(しじきじま)(平戸市志々伎)の行宮にお見えになった折、西の海をご覧になり、「遠くにあるが近くに見えるので近島(ちかしま)(値賀島)とよぶようになったと伝えられています。第一の島を小近(おちか)(小値賀島周辺)といい、第二の島を大近(おおぢか)(中通島、または中通島およびそれ以南の島)とよんだと伝えられており、現在では小値賀島が当時の名を引き継いでいます。 古事記では五島列島全体を指して、「知訶島(ちかのしま)」と呼ばれています。
大小17の島々からなる小値賀諸島は、はるか太古の昔、火山の噴火によって形成された火山群島です。島内の高台に上れば、数多くの島々を望む事が出来ます。五島列島の切り立った山々が連なる地形に比べ海底火山の溶岩が流れて作り出したなだらかな小値賀島の地形は比較的平坦なため古代から人々が住む事が出来たとも言われています。遺跡から出土した遺物によって小値賀の人類の歴史は、約2万5000年前後期旧石器時代にはじまったと言われています。豊富な海の幸はもちろん、なだらかな赤土の大地に恵まれた小値賀。稲作をはじめ様々な作物を作ることができる風土の中で島民たちは自然を敬い自然と共に暮らしてきました。
かつて海が主要な「道」であった時代。小値賀はアジアの交通の要衝として栄えました。遣唐使の時代から、大陸と日本を繋ぐ航路上にあり往来に欠く事の出来ない重要な寄港地でした。小値賀島前方湾では、船の停泊の為の碇石が博多湾に次いで多く発見されています。近年は捕鯨、鮑漁等豊かな漁場で栄えた町としてそれぞれの時代で反映を築いてきました。長い歴史の中で、海を介して様々な国や地域の人々と出会い時代を生き抜いて来た小値賀島。よそものを受け入れる、おおらかさやあたたかさ
その一方で、世の中に流されることなく、自分たちの暮らしにとって大切なものを見極める、芯の通った生き方やバランス感覚は、島の歩んできた道のりが大きく関係していると思わずにはいられません。